大学教員とパンデミック

新型コロナウイルス感染症が蔓延する状況下での大学教員のストーリー

コロナ禍での授業のない一日(幼児子育て中)

朝5時台に起きて軽いストレッチをして、PC開いて仕事して研究関係のメールを読んで、家族を起こして朝食準備して、洗濯物を片付けてゴミ出しして、保育園の最終準備しながら台所で立ちながら朝食を食べて、登園を嫌がるこどもをなんとか園に連れて行って帰宅して、(日によっては掃除機かけた後に)メールとLMS、学生からのLINEを確認して返信して応答を待っている間に授業準備や会議資料を作成して、メールやLMS、そしてLINEの応答がきたら返信をして、昼食食べてお風呂の準備をして炊飯ジャーのスイッチをいれて授業準備しながら会議資料を作成して、生協で注文していた食材等が届いたら自宅に入れてアルコールを含むウェットティッシュで拭いて冷蔵庫に入れて、コロナ感染者情報を確認してため息をついて、Zoomで仕事打ち合わせしているうちに保育園お迎えの時間がきて、園からこどもを連れて帰って一緒にお風呂に入って、お風呂から出たら夕食準備をして夕食食べて片づけをして、こどもがくつろいでいる間に授業準備やメール等して、布団をひいて、洗濯物を洗濯機に入れてスイッチおして明日の保育園準備をして、こどもの歯磨きをサポートして自分も歯を磨いて、「さて寝るか」とこどもを布団に連れて行くもなかなか寝てくれないのでそこから1時間近く一緒に遊んで疲れてこどもが寝たらそのうち自分も寝て、次の日早朝に起きる毎日。家事育児は一人で全てやっているわけではない。パートナーと共同でやっている。これが授業のないコロナ禍における平日の一日。

対面授業が楽しくて恐ろしい

2021年度授業が始まった。対面授業全開で*1

どこの大学もそうだと思うが、対面授業をする際には教師にはいくつかやらなければならないことがある。学生がどこに座ったのかという記録、定期的な換気、アルコール消毒、学生間の距離を取るようにする等など。

正直なところ、教室に入る前は不安が強く、憂鬱だった。が、学生を前にし、学生と話をしていくなかで、また学生同士が話をしているのを見ていると、楽しくなってしまった。授業のあと、窓の外に同僚が歩いているのを見つけたので、思わず「おーい」と手を振りそうになった。そんなことこれまでしたことがないのに。自分がいかに出会いに飢えていたのかを強く実感した。

明らかに浮かれていた(る)のだ。が、少し時間が経って、このことが逆に恐ろしく思えてきた。

教師である以上、学生の感染予防(もちろん、そのためには自分も気を付ける必要がある)に最大限の注意を払う必要があるが、楽しいという感情に流されそうな自分がいた。そのことがとても恐ろしい。

しかし、こうした楽しいという感情は授業なり「教育的関係」にコミットするうえで重要な役割を果たしていると思われる以上、これを抑制するということは簡単ではないと感じている。慣れてはくるのだろう。というか、慣れなきゃいけない*2

 

*1:それにしても「授業」に「対面」を付けることに当初違和感を覚えたが、すっかり慣れてしまった

*2:これはこれで複雑な感情労働だろう

意図せぬ「出会い」、あるいは「過程」の消失

書店にふらっと立ち寄る楽しみの消失

コロナ前、職場での仕事を終えて電車で自宅最寄り駅まで戻り、生活必需品の買い物ついでにその足でよく書店に行っていた。新刊棚をチェックし、「お、あの人の新刊が出ている」と手に取り、また少し本棚を眺めていると、著者のことは知らないが魅力的なタイトルの本に出会い、買うこともあった。その隣の棚を眺めていると、書店企画のフェアがやっていて、知らない本ばかりだけれども、面白そうな本ばかりで何冊か買おうと手に取ることもあった。

そして、また書店の中をぐるぐると歩き回り、日頃買わない雑誌をなんとなく手に取り、目次を見ると知人の名前があり、「最近はこんな研究をしているんだ。今度連絡してみよう」と思う。また、書店をぐるぐると歩き回る。海外文学の棚にある小説はどれも面白そうに見える。手にとっては買うか悩み、「これ以上本が増えたら困るよな」と思い、戻すものもあったが買うときもあった。買ってそのまま帰宅という時もあったが、喫茶店に立ち寄り、さきほど買った本を読むこともあった。最高に贅沢な時間だった。

こういうことを月に何度もやっていた。書店に立ち寄り、歩き回り、本を眺め、手に取り、購入し、読むことは私にとって習慣となり、大きな喜びになっていた。

それが、コロナ禍によって断ち切られた。何かのついでに書店に行くことがほぼなくなった。数カ月前に病院にいき、待ち時間が長いこともあって、久しぶりに書店に行ってみたが、自分でも驚くほど嬉しかった。そして、これから検査だというのに、本をどっさりと買ってしまった(「いつも本買ってない?」「いや、買ってない」というお決まりの会話も帰宅後にする)。

このような事態になってから、本はほぼネット書店で注文し、購入している。以前より本を買わなくなったし、読まなくなった。仕事や家事・育児をまわすのに必死で時間がないこともあるが(しかし、不思議だ。通勤時間がなくなったのになぜ以前より読書時間がないのだろう)、私にとって本を読むことは、書店に立ち寄り、知らない本を手に取り購入して楽しみとセットであって、それがなくなったことで本を読むことへの関心が下がったのかもしれないと思っている。

ネット書店で本を購入すると、便利なことに私の購入履歴から「おススメ」書籍が表示されるが、そこに出てくるような書籍は知っているものが多く、そこから買うことはほとんどないが、なにより魅力的に感じないのだ。

「ミーティング」を「スケジューリング」

こうした状況になる前、職場で同じフロアにいる先生に廊下や印刷室で会うと「実は●●ということで悩んでいて」「こういう面白い本があったんですよ」とよく立ち話をしていた。真面目な話から学内のゴシップまで。話が盛り上がると、どちらかの研究室にいき、長時間話すこともあった。学生がアポなしで研究室にきて相談をすることも定期的にあった。「先生、ここの本全部読んだんですか?」と多くの教員が経験するであろう質問を受けたり、そこから「この本読んでみなよ」と貸してみたり(ちなみに返してもらったことがない!)、ようやく職場での仕事を終えて帰宅しようと歩いていたら、同僚に会い「メシくいませんか」と誘われて食事をして、帰宅時間が遅くなったこともあった。

こういったことがコロナ以降ほぼ消滅した。

本を買うこと、買い物をすること、人に会うこと――あらゆることがそのことをしようと意図してすることになった。「遊び」がなくなった。正直なところ、私はインドア大好き人間で家族といるのも好きなので、現在の状況がたえられないほどつらいというわけではない。だが、面白くはないと感じる時がある。

聞き取り調査もZoomで行なうことが増えた。移動に関わる様々な負担を考えるとよい面も確かにある。が、これまで私は聞き取りを、ほぼ対象者の方が指定する場所で行なってきた(他の方もそうだろう)。対象者の職場や行きつけの店等。聞き取りのためその場所に行く過程で、その方が誰とどのような環境で働き、いかに働いているのかがわかるような気がしていた(もちろん、長い時間をかけてフィールドワークに入っている方のようには理解できていないだろうが)。

そうしたことが、Zoomでの聞き取り調査では消失してしまった。慣れてくることによってまた感じ方も変わるのかもしれないが、少なくても現時点ではこのように思っている。

もう少し「遊び」がほしい

こういうことを書きながら、そういえばレベッカ・ソルニットが『ウォークス』で、あるいはベンヤミンが「一方通行路」で関連するようなことを書いていたように思うが、思い出せない。新学期までに読んで思い出したい(そんな時間があれば)。

sayusha.com

www.chikumashobo.co.jp

 

 

 

ご挨拶(今さらながら)

管理人の児島功和です。

本来最初に「ご挨拶」すべきなのですが、遅くなってしまいました。申し訳ありません。

本ブログを立ち上げた理由は、次のとおりです。

新型コロナウイルス感染症の世界規模での拡大は、大学教員(雇用形態問わず。また大学院生の方も想定しています)の人生や生活、キャリアに多大な影響を与えているはずですが、そのことは全くといっていいほど語られません。こうした状況を少しでも変えたいと考えています。

例えば、子育て中の大学教員、それも女性教員に多くの負担がかかっていることがこれまでの調査等でわかっています。

academicstories.hatenablog.com

また、次の論文に触発されたということがあります。ロザリンド・ギル「沈黙を破る―新自由主義化する大学の‟隠された傷”」という論文です(竹端寛先生との共訳で近日中に刊行予定)。この論文では、大学教員がどれほど厳しい状況でも「集合的」に抵抗することなく、一人ひとりで厳しい状況に適応することが描かれ、そのことが問題視されています。そして、ギルは、大学教員同士が自らの経験を語ること、そしてそれを反省的に捉え、共有することの重要性を主張しています。

昨年以降、多くの大学教員が「学びを止めるな!」という気持ちでよりよい教育を提供しようと奮闘してきたはずです。そのための情報交換も活発です。私もそうした情報から多くを学び、自分の授業づくりに役立ててきました。

私は、こうしたどう授業をどう作ればいいのかということとは別に、どうこの状況を大学教員が過ごしているのか、向き合っているのかという「ストーリー」を交換したいと思っています。これもひとつの「FD」であると考えます。

模索しながらの運営であり、どの程度出来るかわかりませんが、多くの大学教員の方に読んでいただけるような場にできたらと思います。

 

それでは、よろしくお願いいたします。

 

児島功和

 

 

非常時の日常を生きる

本稿は[2020年*1]10月下旬に執筆しているが、この状況はまだましだったと後に回顧することになるかもしれない。非常時の日々を書き留めるべく、ワークとライフの両面から今の暮らしを振り返る。

 「余白」のないオンライン講義

大学に就職したてのころから、自分なりにICTを講義に取り入れてきたが、Covid-19の拡大に対応すべく導入された講義のオンライン化に伴う業務は未経験のことばかりだった。

大学ごとに標準が違うため詳細を記す意味はないかもしれないが、受講者が比較的少なく、リアルタイムで授業が可能な講義やゼミではZoomを使い、オンデマンド配信が要請される大講義では事前に作成した動画をGoogle Classroomで配信、大学が提供するWeb上の学習管理システムを併用して課題を提示・回収し、掲示板で双方向的なやりとりを試みた。

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私の勤務先では4月初旬に講義開始日がおよそ1ヵ月繰り延べられることが決まり、その間に新方式へ適応するよう求められた。さすがに半年ほど経つと各種ツールにも慣れ、その利点を享受するようになった。うまく使えば従来と遜色のないやりとりができ、オンライン講義ならではの可能性(遠隔のゲストの登壇など)も追求できる。

しかしながら、どうしても拭いされない違和感が残るのは、この方式に付随する「余白のなさ」である。

そもそも従来型の対面講義で用いられる教室も、特定の目的のためにデザインされている。だが、そこでは講義の前後に雑談したり、時間帯によっては学生が弁当を広げる場になったりと、別様の使用可能性がつねにあった。講義中に配布物が足りなくなった時には隣の人と共有するよう指示できるし、その場で思いつきを板書するのも自由だ。物理的な空間は冗長性に満ちていて、トラブルが起きても手持ちの道具を活用してやりくりできる。

これに対して、ICTが提供するさまざまなサービスは、一定の自由度があるとはいえ固有の目的に特化し、その場に応じたとっさの活用が難しい。機器や通信回線にトラブルが生じると、そこで物事が中断してしまう。予定通り講義を終えたとしても、Zoomを閉じると、これまでのやりとりはすぐさま切断され、PCを操作していた自分だけが取り残される。前後の雑談もなければ、教室の空気をその場で感じ取り、軌道修正を行う機会もない。そもそもオンデマンド型講義の場合は虚空に向かって語りかけ、それを録画しなければならない。授業はまだ何とかなるが、従来のキャンパス・ライフは失われたままである。

このような「余白」のなさは、利用している道具により熟達すれば、あるいはさらなる技術を駆使すれば解消できるのか、まだ私には判断できない。

 制約のなかで自由を模索する  

検温し、消毒する日々。講義と同様、日常生活でも余白の喪失を感じる。

緊急事態宣言のころ、子どもに絵本を読んでいると、見開きで描かれた山場がまさに「三密」状態で苦笑した。新幹線で里帰りしたブタさんたちが親族でつれだって温泉にゆき、大勢で冬休みを満喫する場面を子どもに読み聞かせながら、いかにそれがありえない光景なのかを痛感する。「わるいウイルスがいなくならないと、ここではあそべないんだよね」。その後、絵本ではなく現実のさまざまな場面で、4歳になった娘は「わるいウイルス」の消失を願うようになった。

ICTの普及で、時間と空間の制約をこえたコミュニケーションが可能になったといわれるが、Covid-19が蔓延する状況において、私たちは可能性に満ちたこの技術を、特定の場に蟄居するため活用している(そしてそれが叶わない人びとも多数存在する)。業務がオンライン化することで、共働きで小さな子どもをふたり育てているわが家は時間を有効に使えるようになったが、その代わり定められた日時にPCの前に縛りつけられている。幸いまだ実感してはいないが、オンラインで勤務する日々は、どのような活動をしたのか一元的に集約・管理可能な環境で働くことを意味してもいる。

制約のなか、日常になんとか自由な余白を見いだすべく模索する。保育所が開いている限り、私も家族もそれなりに充実した日々を過ごせているが、この先の展開は誰にも分からない。〈国立大学教員〉 このテキストの初出は、教育科学研究会編『教育』2021年1月号(旬報社、2020年)に掲載されたコラム・「ひろば COVID-19と子育て・教育② 非日常の日常を生きる」(pp.56-57)です。

*1:原文にはなく、著者の許可を得て、本ブログ運営者が追記した。

明るい話を書けない

新年度早々の体調不良

2020年3月末、新年度が始まる直前に体調が悪くなった。37度台前半の微熱が出て、すぐに職場に連絡をとり、しばらく出勤せず自宅で仕事をすることにした。その後36度台後半になり安心したのもつかの間、また37度台前半になり、微熱以外の症状もあった。すぐに自宅の「物置部屋」に閉じこもり、約2週間そこにいることになった。子供も保育園を休ませることにした。子供には何も言わずに「物置部屋」に隠れたこともあり、「おとうちゃんは?」と話す声をドア越しに聞いて涙したこともある。「大げさ!」と思う方もいるだろうが、簡単な遺書も書いた。自治体指定の番号に何度電話しても37.5度以上が5日以上続いているわけではないということで、最寄りの病院にいくよう言われるだけでPCR検査にはまわしてもらえず、病院にいくと風邪ではないかと言われ、結局自己隔離を続けた。幸いなことに約2週間後には体温も36度台に落ち着き、家族が体調不良になることもなかった。

 

最初の緊急事態宣言

そして、約1カ月遅れで授業が始まるというときに緊急事態宣言が出された。子供はまた1カ月保育園お休みとなった。オンライン授業になったのはいいが、授業をする場所が「物置部屋」しかない。「物置部屋」に机を無理やり押し込んだ。その間妻に子供を見てもらった。それでも子供は「おとうちゃーん!」と叫びながら授業中や会議中に何度も「侵入」してきて、子供を抱えながら授業や会議をしたこともあった。妻が仕事をしているときは、私が子供を見ていた。当時は公園に子供を連れて行くのも憚れるような雰囲気があり、家にいる時間がとても長かった。子供がテレビやYouTube動画を見る時間が長くなっていることが気になったが、その時間が貴重な仕事時間でもあったため、悩みながらもそのままにしてしまった。

行き止まり感 

授業はほぼZoomで行なった。Zoomは研究会等で以前から使用していたため、慣れていたが、授業はやはり別で対面授業の時以上に綿密なデザインが必要だった。私はこうした状況になる前から可能なかぎり授業中に自分が何をするのか、学生に何をやってもらうのかといった指導案を作成していた。オンライン授業になり、指導案作成時間が数倍かかることになった。職場の同僚がオンライン授業のTips集を作成してくれたこともあり、それを見ながら、またネットで検索して見つけた手法等を参考にしながら、授業を組み立てた。子供と遊んでいる最中にその場から離れて少しだけ授業準備、すぐに戻ってまた子供と遊び、家事をし、ネット注文していた宅配物(食料品等)が届くと玄関で拭く等して、またちょっとした隙間時間に授業準備を行なった。毎日があっというまに過ぎていった。

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約2カ月子供が保育園を休み、その中で授業をし、会議をし、家事をし、育児をする生活が続いた。正直なところ、もう限界だった。休職を申し出るか何度も悩んだ。退職も頭をよぎった。が、何とかその時はこらえることができた。研究を少しでも前に進めたい気持ちもあったが、不可能だった。3月末に体調が悪くなる直前まである論文の翻訳をしており、投稿直前までいったのだが、体調不良で投稿できなかった。その後もほとんど研究できなかった。まず、本を読む時間がない。このまま研究者として終わってしまうのではと不安になった。妻もほとんど仕事が進まず、お互いにストレスが溜まった状況で衝突したことが何度もあった。とにかく、私たちはくたびれ果てていた。

 

緊急事態宣言が解除されて、子供が保育園に通うようになったものの、共働きの私たちがそれぞれ仕事をするスペースが自宅(賃貸)にないことが問題だと強く感じるようになった。結局秋に引っ越しをすることになるのだが、それまでは自宅近くの時間制のシェアオフィスで仕事をしたり、普段は民泊施設となっているところが時間貸しを始めたので定期的に利用した。例えば私が2時間仕事をして帰宅し、妻が交代でそこで仕事をするといったように。秋に引っ越しをし、それまでの部屋より広い物件だったこともあり、気持ちがずいぶんと軽くなったことを覚えている。子供の保育園に近いのもよかった。授業は後期になり、さすがにオンライン授業にもなれたが、対面授業のように「今日は悪くない授業だったのでは?」という感覚にはなかなかならなかった。定期的に対面での授業もあった。感染しないよう細心の注意を払いながらの授業で、思うように動いたり話したり、学生の活動を促せないことにいら立ちを覚えることもあったが、学生の姿を見てホッとすることも多く、なにより楽しかった。そして、そんな自分に驚いた。他人に会い、会話をするということに飢えていたのだと思う。

 

研究については悩み続けている。2019年末に2020年秋開催の学会報告依頼を受けて承諾していたこともあり、なんとかしなければならなかった。その学会報告のために、夏休み中にZoomで聞き取り調査を実施した。これまで調査対象者の勤め先や調査対象者が指定した場所に行くことが多かったのだが、この状況ではそれが出来ず、自宅から遠隔にいる対象者の話を聞くことになった。移動に時間がとられないことの便利さを感じたが、調査対象者の生活空間の「空気」に触れることも聞き取り調査にとって重要と考えてきたので、いまだにZoomでの聞き取りには違和感を覚えている(慣れの問題かもしれない)。

 二度目の緊急事態宣言

そして2021年になり、また緊急事態宣言が出された。住んでいる自治体からは再び「家庭保育」を強く勧める手紙が届いた。新型コロナ感染症の陽性判定された知人もいる。妻とは何度も保育園に通わせるか、通わせるのであればどれくらい通わせるかを話し合った。「外出自粛」とされるが、対面授業には行かなければならない。ワクチンに関するニュースを目にするようになったが、いつ接種できるのだろうか。おそらくずいぶんと先だろう。数年前に実父が亡くなり、母はひとりで遠方に住んでいる。前までは定期的に「孫」に会わせることができていたのだが、それもできない。義理の父母にも会わせることがほとんどできない。うちの子は電車が好きで「電車に乗りたーい!」と定期的に言うが、マスクができないので電車移動をしないようにしている。朝、保育園に行くことを嫌がる日も以前より増えた(行くと楽しそうに遊んでいるようだが)。保育士さんからは「おうちにおとうさん、おかあさんがいることをわかっているのでは?」という意見をもらった。そうかもしれない。こういう非常時こそ深呼吸をして、自分や家族の将来のことをじっくり考えればよいのかもしれない(わかっている)。しかし、正直なところ、日々の生活をこなすことに精いっぱいで、なかなかそれが出来ない。安定した暮らしが出来ているだけでありがたいと頭ではわかっている。それでも、いったいこのままどうなるのだろうと不安を感じている。〈私立大学教員〉